とりあえず書きます

とりあえず読んだもの、観たもの、聞いたもの、食べたものなどについて書いていきます。とりあえず書いて書き直されることもあるでしょう。

読書 いくつか

チャイナ・ミエヴィル『クラーケン(上)』ハヤカワ文庫SF

 

クラーケン(上) (ハヤカワ文庫SF)

クラーケン(上) (ハヤカワ文庫SF)

 

 ロンドン自然史博物館に保管されているダイオウイカの瓶詰の剥製がある日衆人環視の中で一瞬で消えうせた。居合わせたイカ担当学芸員のビリーが巻き込まれるのは、イカを崇拝するダイオウイカ教団、イカ教団から脱走したエージェント、喋るタトゥーが率いる犯罪組織、スコットランドヤードの魔術カルト特務課、ストライキ中の使い魔たちを率いるスト指導者の精霊?といった濃い面々。そいつらに翻弄されながらもう一つの(闇の)ロンドンを彷徨うビリーの運命は、触手に導かれて下巻に向かうのであった。

 

というように、ミステリーのようにはじまった物語は、魔法と影が跋扈するロンドンをめぐる物語として展開されていく。使い魔のストライキ当たりのエピソードにミエヴィルらしさを感じる。

 

本作は都市の物語だと思う。ロンドンという都市の物語だ。魔法が出てきても、魔法使いが歩いていても、イカ教団が潜伏していても、それは現実のロンドンの影の向こう側にこっそりと隠れているように、現実の影の延長のように思わされる。ロンドンへの詳細な描写がそれを支えていることはもちろんだが、それだけではない何かがあるようで、それを確かめるためにも早く下巻を読もうと思う。

 

田浦秀幸『科学的トレーニングで英語は伸ばせる!』マイナビ新書

 

 立命館大学で英語教育に従事する著者が説くのは、第二言語習得研究に基づく英語学習法。基本的な考え方は「日本語を覚えたのと同じ方法で英語を学ぶことは普通はできない」。ここから4技能についての、学習科学等に基づいた学習法が紹介される。魔法のようなメソッドがあるわけでなく、文法や語彙の大切さを説き(タスクやシチュエーションに合わせることは大切だが)。正しい反復を説く。また、重要な点として「自分が達成している、進捗していっているという感覚を適切に取り入れる」必要性が指摘される。これは、英語に限らないなあと思う。

 

■読書 野村克也『強打者列伝』 角川書店

 野村克也『強打者列伝』(onetテーマ21) 角川書店

強打者列伝 (oneテーマ21)

強打者列伝 (oneテーマ21)

 

 ノムさんの本は基本同じという。まあ、同じネタを使いまわすし、語り口は一緒だしねえと思う。ただ、だからこそ、スルスルと楽に読めるという意味で、ある種の清涼剤的ともいえる(著者近影に清涼感ないけど)素晴らしいコンテンツだと思う。

さて、本作はノムさんが憧れた、対戦した、見てきたバッターたちについて。「強打者」と認めた、あるいは「強打者」の可能性を見たバッターについていつものノムさん節で語られます。特にキャッチャー視点から各バッターをどう抑えるかというくだりにはノムさんの性格の悪さ(褒めてる)があふれていて楽しめます。重視されるのは「頭を使うこと」「チームのためにあること」。そして人間性。仕事=野球と一貫した人間教育を求めるノムさん哲学が全編に満ちており、お馴染みのボヤキが聞こえてくるような語り口でするすると読めます。(教え子を取り上げた章で古田を取り上げなかったのはいろいろ面白いですね。2000本打っているわけだし、ご本人が言うところの「頭を使った」打者だったはずだし。やっぱり年賀状であろうか)

【読書】いくつか

2019年になったので最近読んだものをいくつか

■ 残雪『黄泥街』白水Uブックス

黄泥街 (白水Uブックス)

黄泥街 (白水Uブックス)

 

 現代中国を代表する作家残雪の第一長編。どこかにあったという黄泥街。そこでは、、ぐちゃぐちゃぬちゃぬちゃと灰と汚物と蟲が街を覆いつくし、人々の言葉はかみ合わない。強烈なイメージと言葉が正確な意味を失っていく、呼んでも読んでも読者も作中のすべてもがわからなさに取り込まれていく。そこにすべてを明確にし、判断し、批判した文化大革命(著者の父は「右派」として追放されている)を見ることもできるだろうし、さらに根本的な「言葉」そのものへの追及を見ることもできるだろう。

巻末についている訳者近藤直子の詳細な読解を読むと、ある程度の見取り図をもって作品にあたることができる。「わからないこと」という切り口で、不明瞭な本作に分け入るヒントをあたえてくれる。もちろん、それがすべてでないことはお書きになった本人が一番感じていることだろう。そういう小説だ。

個人的には、汚物と蟲の描写の連続に心ひかれた。とにかく登場人物は糞を垂れるし、ゴキブリや蜥蜴や蛇や蝙蝠や鼠やナメクジや、といったまさに「蟲」があらゆるところを覆いつくす。ただ、気持ち悪さよりも異様な美しさのような圧倒的な異物感を感じたのだった。それがなんなのかは、まだわからないけど。

「私」が黄泥街を探すところからはじまり、「蛇」の夢として語り始められる本作で、これらの蟲は作品の様々な部分でイメージとして物語をつないでいたように思う。時に人が、蜥蜴に、蝙蝠につなげられていく。そのイメージの変転の妙もまた本作の魅力だったように思う。

 

■ 中原淳『働く大人のための「学び」の教科書』かんき出版

 

働く大人のための「学び」の教科書

働く大人のための「学び」の教科書

 

 現在立教大学経営学部教授の中原淳による一般向け著書。
「働く人」のために「働く大人」であり続けるための学びのメソッドについて。著者が多くの「学んでいる人」から引き出した3つの原理原則(背伸び、振り返り、つながり)と7つの行動(タフな仕事から学ぶ、本を1トン読む、人から教えられて学ぶ、越境する、フィードバックをとりに行く、場を作る、教えてみる)というのは、今自身の周りで「学んでいる人」の行動に合わせても納得できる。

業務の関係の人と勉強会的なことを企画することが結構あるけれども、そのステップやそのなかでリーダー的な人たちの行動は原理原則と行動に沿っていると思う。

個人的にポイントだと思うのは、「場を作ること」「教えてみること」。実際に動き出して、他人を巻き込んでいくことから、「学び」が生まれるということだが、これは本当に実感として感じるのである。単に知識を習得するだけであれば、場を作る必要はあまりない。勉強会を開かなくても、今は参考書も、ウェブの教材も充実している。(むしろ知識を得るだけだならそっちが効率いいかも)ただ、人が集まり、交流することで、知識を得ることだけではない、「アイデア」(というのが適切かはわからないけど)が生まれるのだ、これは、身体的な接近、レスポンスの感覚からの刺激というのかなあと。

と、今の乏しい自分の経験からの言語化なのであるが、そう実感できるのだ。その場で「教えてみる」という方法論はさらに有効である。自分からその場で発信することで、自分に刺激があつまり、そこで、さらに活性化するそれを場にいるメンバーに共有していくことで、さらなる「学び」が生まれるのではないかというのが、いま自分が働きながら学ぼうとしているものとしての実感だ。

 

■ 西谷格『ルポ 中国「潜入バイト」日記』小学館新書

ルポ 中国「潜入バイト」日記 (小学館新書)

ルポ 中国「潜入バイト」日記 (小学館新書)

 

 上海の寿司屋、反日ドラマのエキストラ、パクリ遊園地のキャスト、婚活バーティ、高級ホストクラブ、爆買いツアーガイド、留学生寮管理人。と著者がとりあえず、飛び込んだ現代中国の様々な現場。まず、一つ一つの現場とそこにいる人たちの強烈さが印象的だ。そこから見えてくる、中国の流動性の高い社会やだからこそなのかの「身内」という意識など、著者の実感を感じられるルポ。著者の戸惑いと、納得感の間が面白い。

本書全体を通じて感じられるのが、中国社会の流動性(雇用だけでなく様々な関係が)とそのなかでおそらく強力に作用する「身内」という感覚なのだが、これは現代の中国を考えるうえで理解しておく必要がある要素ではないかと感じた。

平成27年度 大相撲 五月場所 千秋楽

早いもので、千秋楽。キセが14日目にいい仕事をしてくれたおかげで、白鵬VS伊勢ヶ浜部屋という様相になってきた千秋楽でした。

 

印象に残ったこと

 

とりあえず。何度も取り上げているところの、追手風部屋の岩崎今場所も6-1の好成績でした。先場所と同じ相手に負けて全勝を逃すあたりもなかなか味わい深いところですね。

 

常幸龍VS千代大龍

同学年対決は、千代大龍の勝利。思いっきり飛んだのはいいんだけど、なんだんかなあという感じでした。とりあえず(たぶん)帰り入幕おめでとう

 

琴勇輝VS豊響

押し相撲対決は、突き合いを制して豊響の勝利。なんとか幕内に豊響残れるかな。

 

千代丸VS旭秀鵬

千代丸さんの今場所の元気のないところを象徴するような相撲。立ち会いで遅れて、押せずにもっていかれる。うーんこれではという感じですね。十両からでなおしになりますか。旭秀鵬はまた来場所に期待。

 

旭天鵬VS遠藤

とにかく怪我をしないでという祈りのみだった遠藤も結局五勝で千秋楽。本当によく頑張ったと思います。最後もきっちりといい勝ち方でした。来場所傷が癒えれば期待大ですねー。

 

豪風VS貴ノ岩

勝った方が勝ち越しというなかなかに濃い一番は、豪風がいい当りからベテランらしく相手を巧くコントロールする相撲で勝利。貴ノ岩も陥落やむなしですかねえ。また頑張ろう!

 

阿露路VS佐田の富士

アムロ二桁をかけての一番でしたが残念。リアル系ゆえの軽量さをつかれると難しいですね。精神コマンドを会得しての来場所に期待(スパロボネタしか出てこなかったでござる)

 

嘉風VS臥牙丸

4敗勢最初の嘉風はガガさんの圧力に屈しましたの巻。ガガさんが揺さぶりに落ちなかったあたりがよかったところですね。負け越しましたが頑張ったと思います。

 

荒鷲VS玉鷲

攻めたのは終始荒鷲でしたが逆転で玉鷲の勝利。いいところを取ったんですが、詰め切れなかったというところでしょうか。

 

富士東VS北太樹

北太樹がいい相撲というか、富士東がなんか悪いなあという感じの相撲。また来場所十両からでしょうか。

 

佐田の海VS安美錦

頭であたりあっての一番は、物言いがつく展開。確かに微妙だなあと思ったら取り直し。また微妙ながら佐田の海の勝利。勝ち越しおめでとうですね。安美錦はまともに引きすぎた感。

 

徳勝龍VS豊ノ島

負け越したけど、徳勝龍の存在感をだした場所になったんではないでしょうか。照ノ富士倒したのは大きかったですね。

 

栃ノ心VS誉富士

栃ノ心が千秋楽にらしい力相撲を見せつけてくれました。来場所に期待ですね。

 

勢VS宝富士

新三役昇進であろうな宝富士と優勝争いにからんでいる勢の楽しみな一番。伊勢ヶ浜勢がきちんと照初優勝の障害を取り除いてる感がありますな、宝富士の勝ち。来場所の新三役が楽しみですね。

 

魁聖VS逸ノ城

なんのかんので、最後に勝ち越しをかけてるイチノンなのでした。なかなか、爆発力がみられないなあと思いますが。力相撲同士は、逸ノ城がきちんと勝ち越し。四敗がどんどん負けて、最終決戦への準備をしている感さえある。

 

栃煌山VS隠岐の海

栃煌山がなんとか勝ち越しという相撲。ただ、相撲自体は栃煌山が攻められながらも、いいおっつけで相手をコントロールできていましたね。さすが

 

高安VS妙義龍

下から下からの相撲で最初から主導権を握った妙義龍が、小手にまかれながらも勝利。高安は最初に下から押されて起こされると厳しいですね。

 

照ノ富士VS碧山

本日のメインイベントその一。碧山が絶望的に空気を読まないぶちかましとかで主導権を取ったら面白いなあとか思いましたが、みごとな四つ相撲にもちこみ勝利。いやー強い。

 

稀勢の里VS琴奨菊

ライバル対決で、毎場所熱戦なんだけど、基本的に大体決着がついた後なので、空気感のあるこの対決。今場所もそうでした。四つにくんでからの攻防もあるいい相撲だったんですが。この二人で決定戦とか見たいんですが、横綱全員がモンゴル里帰りで食べ過ぎてお腹壊すとかしないと無理ですかね。

 

白鵬VS日馬富士

本日のメインイベントその2。弟弟子のためという思いの日馬富士というところ。立ち会いから白鵬の圧力でこれは、白鵬かと思ったらまさかのもぐりこみ。あそこで、あの動きができるところが、日馬富士日馬富士というところであろうかと。そして、涙を流す照ノ富士の姿に伊勢ヶ浜部屋の熱い結束を感じました。すばらしい。おめでとう、おめでとう。

インタビューでの笑顔が実に素敵でありました。さて、来場所は新大関になりそうですね。楽しみ楽しみです。

 

【読書】すべてはモテるためである

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 

なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルイからでしょう。

 

 

からはじまる「モテる」ためのレッスンは、適当な自己理解と適度な自己肯定と適切なコミュニケーションへと見事に展開し、愛と生に関する倫理へといきつきます。國分功一郎と対談していることも納得がいきます。極めてマニュアル的/形式的であると同時に読者に対して対話と思考を強いるという点で倫理と哲学の精神に貫かれているといえるでしょう。

 

「キモチワルイ」ということを認めること。そして、それを「肯定」してくれる人/場所を見つけていきましょうという過程は、多分幸せに生きるためのエチュードになっているので、とりあえず生きるために読めばいいと思うのでした。

 

過去のダメになった恋愛とかもにょもにょとかについて思い当たる節の一つや二つはみつかるでしょう(みつかった)

平成27年度 大相撲 五月場所 九日目

 

 

序二段の岩崎は4連勝。実にいい感じではないか。序二段優勝めざせ!

 

琴勇輝VS嘉風

 

前半好調同士でどうなるかというところ。立ち会い低く速く当たって形を作れた嘉風の相撲になったというところか。速さと巧さがよく出た相撲でした

 

豊響VS阿露路

 

好調アムロ。集中しての見える!な回避行動から懐に入っての下手投げ。見える!豊響は全体的に雑な感じに見えてしまいますね。

 

荒鷲vs常幸龍

とうとう関取訪問を超えても連敗して負け越してしまった荒鷲。今日も力なく連敗。どこがどう悪いというところが見えないという感じですねえ。さて

 

旭秀鵬VS貴ノ岩

好調の旭秀鵬が変化されましたが、こじいれた右を巧く使って勝ち越し。ついでに、お母さんのお誕生日。おめでとう!

 

旭天鵬VS隠岐の海

差し手争いで勝った隠岐の海の一気の相撲。旭天鵬は受けに回るとちょっともろさがでますね。

 

遠藤VS富士東

巧く横についたんですが、持っていけないあたりホントに膝が悪そう。そして、堪える度に、やめてやめてと思うので、怪我無く今場所を終えることを祈るのみ。

 

高安VS魁聖

一敗同士の楽しみにな一番。立ち会いで高安がどういう体制になるかが注目かなと思っていたら、魁聖が下からいい感じで踏み込んでの完勝。二子山が勝っても負けても酷い相撲とか、なんかナチュラルに畜生なこといってましたが、今日の相撲は文句ないよなあ。

 

豪風VS誉富士

完全に立ち会いを制した豪風が、誉富士をコントロールしたという印象。立ち会いで崩したところで心理戦に勝ったというところでしょうか。

 

千代丸VS佐田の富士

ともに元気がない二人。可愛い千代丸さんが力なく出されてしまいました。しかし出され方も妙に可愛いのよね。

 

勢VS臥牙丸

勢が内容で圧倒。下から下からという攻めの意識がいい感じですね。ガガさんはちょっと当りがいいときより弱いように感じますね。

 

碧山VS北太樹

碧山が突っ張りでコントロールしたという感じですね。解説でもいわれてますが、突っ張って持っていければ一番良かったのかもしれないですね。

 

栃ノ心VS安美錦

いきなりの栃ノ心の変化。まあ、考えてのことかなあとおもったらいつの間にかしてたらしい、妙に可愛いぞ。しかし二子山は変化嫌いやね。この人のぶっちぎりの畜生解説聴いてみたい気もする。

 

逸ノ城VS豊ノ島

ノ対決ですね。まあ、どうでも。いいんですが。仕切りの微妙な駆け引きが面白かった。豊ノ島微妙にズラしたかなあと思ったらなんかバタバタしたちょっと変な相撲に。このあたり立ち会をあわせるって大事だなあと思います。とりあえず、トヨノンの膝が何ともないといいんだけど

 

宝富士VS栃煌山

栃煌山が三役の力をみせたというところでしょうか。うまいですね。宝富士は強いときは強いんだけどなあというところからもう一歩いって欲しい。

 

照ノ富士VS徳翔龍

はりからの攻めがちょっと雑だったのではないかという相撲。上手いいところ取られているので、もう少し慎重に行くべきだったのではないかなあと思うのですが。二子山は手つきがいつもと違うところを指摘。なるほど。

 

稀勢の里VS佐田の海

ここはキセ大関力を見せて完勝。とりあえずこのまま頑張ってください。

 

豪栄道VS琴奨菊

なんというか菊さんが悪いなあという相撲。いろいろ難しいのかなあと

 

玉鷲VS日馬富士

なんというかありゃま。という相撲で日馬富士二敗。やっぱり立ち会いで勝てないと、勝てないのかなあと思わざるをえない展開でした。立ち会いを諸手突きで距離を取ったのが良かったですかね。

 

白鵬VS妙義龍

まあ、強いですね。白鵬。はい。

というわけで、今場所も白鵬かなあという九日目でした。案外キセに期待したい。

 

 

 

 

 

【読書】 生そのものの政治学 および現在について

 

生そのものの政治学: 二十一世紀の生物医学、権力、主体性 (叢書・ウニベルシタス)

生そのものの政治学: 二十一世紀の生物医学、権力、主体性 (叢書・ウニベルシタス)

 

19世紀以来、国家は健康と衛生の名のもとに、人々の生死を管理する権力を手にしてきた。批判的学問や社会運動が問題視したこの優生学的思想はしかし、ゲ ノム学や生殖技術に基づくバイオ資本主義が発展した21世紀の現在、従来の批判には捉えきれない生の新しいかたちを出現させている。フーコー的問題を継承 しつつも、病への希望となりうる現代の生政治のリアルな姿を描き出す、社会思想の画期作。

Amazon内容紹介より

 

 著者は、イギリスの社会学者。生物学の研究から哲学、社会学への研究へ転じたという経歴の持ち主でありる。本書は上記の内容紹介にもあるとおりフーコーが提起した(あるいはそう思われる)問題について、現代の科学技術の発展(特に分子生物学)のなかで再考し発展させていくこと、現代に出現する「生と政治学」の関係を描き出すこと大きな目的としている。

 

本書の構成は以下の通りである。

日本語版への序文
謝 辞
序 章
第一章 二十一世紀における生政治
第二章 政治と生
第三章 現れつつある生のかたち?
第四章 遺伝学的リスク
第五章 生物学的市民
第六章 ゲノム医学の時代における人種
第七章 神経化学的自己
第八章 コントロールの生物学
あとがき ソーマ的倫理と生資本の精神 

 

これらの章題にしめされるとおり、現代の生物科学と政治の配置をめぐって著者の議論は非常に多岐にわたっている。そのすべてを逐一紹介することは、ここでは行わない。私が重要と考える論点そしてそこから導かれる私自身が考えたことについてとりあえず書ければと思います。

 

計算可能な「希望」を選択することについて

 本書の論点のうちでも重要であると思われるのが、生物科学技術の発展がもたらす「自然・人間」に関する認識の配置転換である。

 

ありとあらゆるものは原則として理解可能であるようにみえ、それゆえ、自分が希望する人間になったり、希望する子供を作成したりできる、計算された(生命への)介入の道が開かれているように思われる。
『生そのものの政治学』p. 14

 

 

上記にもあるように、生物科学技術によって自らの身体をよりよくあるいは健康に変更する、生まれてくる子供に望まれる能力をつけること、あるいは「健康」な身体で誕生することを保証することが「可能」となることは、多くの人にとって希望を与えることになる。

 当然のことながら、技術の発展によって不可能であったことが可能となり、人びとに希望を与えること。それ自体はなんら特別なことではない、情報通信技術や航空技術の発展は世界を小さくし、多くの希望を生み出している。

 しかし、生物科学の発展によって生み出される希望が、他と決定的に異なっている点は、その希望がこれまで、自然そして人体をこれまでに無いレベルで操作することが「可能」となることによって生じているということである。それを著者は「計算」という言葉にしている。生物科学の発展が分子のレベルに行き着き、人間が分子レベルで解明され、これまで偶然や運あるいは神の領域にあった部分が人間によって操作できるようになること。その操作と認識に関する転換を伴っているということが、重要なのである。

現代の医療テクノロジーは、いったん病気が発症したならば、それをただ治療しようとするだけでなく、身体と心の生体プロセスをコントロールしなければならなくなる。これらが最適化のテクノロジーなのである。

『生そのものの政治学』p. 34

 

身体は久しく自然の所与であることをやめている。したがって、そのような増強や変容を押しとどめたい「もう充分だ」という政治は、想像のうちにしかない過去へのあこがれの類であって、歴史的に素朴であるのみならず、倫理的にも懐古趣味なものである。
『生そのものの政治学』p. 42

 

個々人にとっては、身体化された自己を新たな方法で改変できると考えられるようになり、それゆえに、彼ら自身の生物学的・ソーマ的な存在を、責任をもって自己管理するという、さらなる義務が課されるようになったのである。

『生そのものの政治学』p.159

 

 

そして、操作可能となった自然そして人体に関しては、これまでの「病気→健康」という医療に加えて「病気→健康→最適」というあらたな経路が導かれる。そこでは、健康であることは倫理に正しいことであることに加えてより良い身体を求めないこと、健全な身体を維持しないこと、あるいは子供にそれを望まないことは「可能」であるが故に、行わない理由を説明する必要があること、あるいは倫理的な課題となって一人一人が「選択」する必要のある課題となる。

 この計算可能性とそこからもたらされる希望を「選択」するかどうかという倫理的政治的な配置の中に現代の人間が置かれているということ、そのビジョンは本書の重要な論点だろう*1

 

操作すべき国民から操作可能な個人へ

 計算可能性の増加がもたらす人間の配置。それは大きな政治的配置の転換でもある。特に19世紀から20世紀前半にかけて国民の「健康・人口」は国民国家にとって非常に重要な資源であり、政治課題であった。まさにフーコーが論じた「生政治」がそこには展開されていたのである。

  しかし、科学技術の発展によって政治の配置は大きく転換する。前節で述べたように、身体や健康は、技術によって計算可能な物となり、それを選択肢決定するのは市民である個々人に委ねられるようになった。健康であること倫理や政治が国民から個人へと移行されるのである。

個人が人口集団にとって代わり、問題となる質はもはや進化論的な適応度
ではなくクオリティ・オブ・ライフとなり、社会という政治的領土は家族や共同体といった家庭化された空間に道を譲り、そして責任はいまや、国際競争の場で国民を統治する者たちにではなく、むしろ家族やその成員に対して責任がある者たちに降りかかるのである。

生そのものの政治学 p. 124

 

われわれの身体はわれわれ自身のものとなり、この現われつつある生のかたちにおいて、われわれの期待、希望、個人的で集合的なアイデンティティ、そして生物学的な責任の中心になったのである。

生そのものの政治学 p. 197

 

それは、あえて断定的な言い方をしてしまうと生政治の対象が「操作すべき国民」から「操作可能な個人」へ位置を変えていくことになるということだ。もちろん、公衆衛生や医療保険等々で国家が生命にかんして介入することがなくなるわけではない。ただ、ここで重要なのはその国家の生命に対する介入(種々の医療に対する補助、保険、生命科学に関する助成等々)の対象が個人に近くなり、また、国民である個人も自らの選択を補助するもしくは選択の障害としてその介入をみるということである。そこでは、著者が「責任」という言葉で表しているように、個人の生はこれまで以上に個人の選択の問題となっていくのである。

 

リスク社会との関連

 

そして、この「計算可能性」「選択」「希望」「個人の選択と責任」という論点は、おそらくベックらが提唱するリスク社会*2との関連から見ていくことが必要であろう。本稿は、まずその可能性を記してとりあえずは終わろうと思う。単純に私がベックをきちんと読めていないからなのだが。そのあたりをきちんと読んで、この現代社会に関する考えを進めていきたいと思う。

 

われわれの生物学的な生そのものは、決定と選択の領域へとはいってしまった。
生そのもののの政治学 p476

 

なんにせよ。上記の引用端的に示す「決定と選択」の領域という論点はおそらく現代社会を最も端的な表すものだと思う。このあたりと「計算可能性」という論点を次は別の角度から考えてみたい。というところで、ひとまず終わりにします。

 

*1:これらじゃら伊藤計劃の『ハーモニ』(2008)を想起するのは多分正しい。特に健康に関する倫理については、鋭く描かれていた。また言及することもあると思う

*2:『危険社会-新しい近代への道』等