【読書】 生そのものの政治学 および現在について
生そのものの政治学: 二十一世紀の生物医学、権力、主体性 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ニコラスローズ,Nikolas Rose,檜垣立哉,小倉拓也,佐古仁志,山崎吾郎
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2014/10/24
- メディア: 単行本
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19世紀以来、国家は健康と衛生の名のもとに、人々の生死を管理する権力を手にしてきた。批判的学問や社会運動が問題視したこの優生学的思想はしかし、ゲ ノム学や生殖技術に基づくバイオ資本主義が発展した21世紀の現在、従来の批判には捉えきれない生の新しいかたちを出現させている。フーコー的問題を継承 しつつも、病への希望となりうる現代の生政治のリアルな姿を描き出す、社会思想の画期作。
Amazon内容紹介より
著者は、イギリスの社会学者。生物学の研究から哲学、社会学への研究へ転じたという経歴の持ち主でありる。本書は上記の内容紹介にもあるとおりフーコーが提起した(あるいはそう思われる)問題について、現代の科学技術の発展(特に分子生物学)のなかで再考し発展させていくこと、現代に出現する「生と政治学」の関係を描き出すこと大きな目的としている。
本書の構成は以下の通りである。
日本語版への序文
謝 辞
序 章
第一章 二十一世紀における生政治
第二章 政治と生
第三章 現れつつある生のかたち?
第四章 遺伝学的リスク
第五章 生物学的市民
第六章 ゲノム医学の時代における人種
第七章 神経化学的自己
第八章 コントロールの生物学
あとがき ソーマ的倫理と生資本の精神
これらの章題にしめされるとおり、現代の生物科学と政治の配置をめぐって著者の議論は非常に多岐にわたっている。そのすべてを逐一紹介することは、ここでは行わない。私が重要と考える論点そしてそこから導かれる私自身が考えたことについてとりあえず書ければと思います。
計算可能な「希望」を選択することについて
本書の論点のうちでも重要であると思われるのが、生物科学技術の発展がもたらす「自然・人間」に関する認識の配置転換である。
ありとあらゆるものは原則として理解可能であるようにみえ、それゆえ、自分が希望する人間になったり、希望する子供を作成したりできる、計算された(生命への)介入の道が開かれているように思われる。『生そのものの政治学』p. 14
上記にもあるように、生物科学技術によって自らの身体をよりよくあるいは健康に変更する、生まれてくる子供に望まれる能力をつけること、あるいは「健康」な身体で誕生することを保証することが「可能」となることは、多くの人にとって希望を与えることになる。
当然のことながら、技術の発展によって不可能であったことが可能となり、人びとに希望を与えること。それ自体はなんら特別なことではない、情報通信技術や航空技術の発展は世界を小さくし、多くの希望を生み出している。
しかし、生物科学の発展によって生み出される希望が、他と決定的に異なっている点は、その希望がこれまで、自然そして人体をこれまでに無いレベルで操作することが「可能」となることによって生じているということである。それを著者は「計算」という言葉にしている。生物科学の発展が分子のレベルに行き着き、人間が分子レベルで解明され、これまで偶然や運あるいは神の領域にあった部分が人間によって操作できるようになること。その操作と認識に関する転換を伴っているということが、重要なのである。
現代の医療テクノロジーは、いったん病気が発症したならば、それをただ治療しようとするだけでなく、身体と心の生体プロセスをコントロールしなければならなくなる。これらが最適化のテクノロジーなのである。
『生そのものの政治学』p. 34
身体は久しく自然の所与であることをやめている。したがって、そのような増強や変容を押しとどめたい「もう充分だ」という政治は、想像のうちにしかない過去へのあこがれの類であって、歴史的に素朴であるのみならず、倫理的にも懐古趣味なものである。『生そのものの政治学』p. 42
個々人にとっては、身体化された自己を新たな方法で改変できると考えられるようになり、それゆえに、彼ら自身の生物学的・ソーマ的な存在を、責任をもって自己管理するという、さらなる義務が課されるようになったのである。
『生そのものの政治学』p.159
そして、操作可能となった自然そして人体に関しては、これまでの「病気→健康」という医療に加えて「病気→健康→最適」というあらたな経路が導かれる。そこでは、健康であることは倫理に正しいことであることに加えてより良い身体を求めないこと、健全な身体を維持しないこと、あるいは子供にそれを望まないことは「可能」であるが故に、行わない理由を説明する必要があること、あるいは倫理的な課題となって一人一人が「選択」する必要のある課題となる。
この計算可能性とそこからもたらされる希望を「選択」するかどうかという倫理的政治的な配置の中に現代の人間が置かれているということ、そのビジョンは本書の重要な論点だろう*1
操作すべき国民から操作可能な個人へ
計算可能性の増加がもたらす人間の配置。それは大きな政治的配置の転換でもある。特に19世紀から20世紀前半にかけて国民の「健康・人口」は国民国家にとって非常に重要な資源であり、政治課題であった。まさにフーコーが論じた「生政治」がそこには展開されていたのである。
しかし、科学技術の発展によって政治の配置は大きく転換する。前節で述べたように、身体や健康は、技術によって計算可能な物となり、それを選択肢決定するのは市民である個々人に委ねられるようになった。健康であること倫理や政治が国民から個人へと移行されるのである。
個人が人口集団にとって代わり、問題となる質はもはや進化論的な適応度
ではなくクオリティ・オブ・ライフとなり、社会という政治的領土は家族や共同体といった家庭化された空間に道を譲り、そして責任はいまや、国際競争の場で国民を統治する者たちにではなく、むしろ家族やその成員に対して責任がある者たちに降りかかるのである。生そのものの政治学 p. 124
われわれの身体はわれわれ自身のものとなり、この現われつつある生のかたちにおいて、われわれの期待、希望、個人的で集合的なアイデンティティ、そして生物学的な責任の中心になったのである。
生そのものの政治学 p. 197
それは、あえて断定的な言い方をしてしまうと生政治の対象が「操作すべき国民」から「操作可能な個人」へ位置を変えていくことになるということだ。もちろん、公衆衛生や医療保険等々で国家が生命にかんして介入することがなくなるわけではない。ただ、ここで重要なのはその国家の生命に対する介入(種々の医療に対する補助、保険、生命科学に関する助成等々)の対象が個人に近くなり、また、国民である個人も自らの選択を補助するもしくは選択の障害としてその介入をみるということである。そこでは、著者が「責任」という言葉で表しているように、個人の生はこれまで以上に個人の選択の問題となっていくのである。
リスク社会との関連
そして、この「計算可能性」「選択」「希望」「個人の選択と責任」という論点は、おそらくベックらが提唱するリスク社会*2との関連から見ていくことが必要であろう。本稿は、まずその可能性を記してとりあえずは終わろうと思う。単純に私がベックをきちんと読めていないからなのだが。そのあたりをきちんと読んで、この現代社会に関する考えを進めていきたいと思う。
われわれの生物学的な生そのものは、決定と選択の領域へとはいってしまった。
生そのもののの政治学 p476
なんにせよ。上記の引用端的に示す「決定と選択」の領域という論点はおそらく現代社会を最も端的な表すものだと思う。このあたりと「計算可能性」という論点を次は別の角度から考えてみたい。というところで、ひとまず終わりにします。